アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.80

再びパリ、ピアニスト フジコ・ヘミング

パリで蘇る

私(筆者)に日本滞在中のフジコから連絡があり、パリに戻る日を知らされた。日本での山ほどのコンサートツアーを無事に終了。コロナ禍も落ち着いた今年1月、一緒に日本から帰国した指揮者マリオとフジコに再会した。その後1週間ほど彼女は死んだように動かずベッドに臥せていた。このまま死んでしまうのではないかと心配だったが、少しずつ回復し、8日目は元の元気なフジコ・ヘミングに戻っていった。超過密スケジュールをこなしてやっと彼女の居住地パリのアパルトマンにたどり着いた途端に、日本での疲れが押し寄せたのだった。疲労の回復は唯々安眠のみ。彼女は長年にわたってこのように自分の身体を管理してきたのだろう。フジコはまさにパリで蘇るのであった。

そして、久しぶりに2か月間というパリでの長期滞在が可能になった。その間、約3年ぶりのパリでのコンサートも開催される。国立Théâtre du Conservatoire(パリ9区)でのソロ・コンサートである。フジコはここでは2度目のコンサートの開催であったが、ベルリオーズ、リスト、ショパンなどが演奏した歴史的な劇場である。すでに完売になっているそうだ。

トモコの作品の前でフジコ、マリオと

ア-ト、そして恋愛

私は10年前フジコと出会った。本電子版「巴里通信」のインタビューは3回目だが、今回はピアノ以外のことを聞こうと思った。しかし結局はピアノが根底にあり、結びつくと思う。

フジコは絵も描くので個展もたくさん開催している。個展を開催すると大勢のファンが来場する。アートに関しての話になると「やはりアートがないと野暮ったい人生になるから。私はそういうのはイヤ」ときっぱりと言う。

世界中にフジコのファンがいて、演奏会や個展に足を運ぶ。それらはまるで人々に「希望」を与えているかのように見える。

「私は人に希望を与えているかどうかは分からない。でも大事なのは評論家や専門家の意見ではなく、大衆と言われる人たちから喜ばれること。ゴッホやモディリアーニが好きだけど、その中のこの作品が好きと言うことで、画家は誰でもいいの。昔の絵描きさんは可哀そうだった。コピ-も写真もなかったから残せなかった。叔母は日本画家だったけれど私の事を良く分かってくれた。それで私の母に『あんた、そんなこと言いなさんな、フジコはバカじゃない』って言ってくれているのを、いまだに思い出して笑ってしまう。叔母はもの静かなインテリな人だったから。息子たちも優秀で彼らは30代からどんどん出世して、大学の先生になったり、ニューヨークのジャパンエアーラインのトップになったり、それぞれ素晴らしい職について幸運な人たちだった。あの叔母がいたからこそ、ああいう子どもたちができたんだと思う。叔母は中村大賀の弟子だったけど、あの頃はまだ女性は見下されていて、女じゃダメと。素晴らしい絵を描いていたけど認められなかった」

私はフジコの人生をたどる動画で、その絵を見たことがあった。「ああ、あの大きな絵。あれ今、北下沢の家に飾ってあるの」。画家としての叔母の存在は、彼女の人生に大きな影響を与えていた。

私はフジコと友人として約10年の付き合いだが、彼女を見ていると泥沼に咲くピンクの睡蓮の花のような乙女心を持っている人に思えるのだ。「あの蓮の花、泥沼に咲くの? 私モネの蓮の絵嫌い、ボーっとしていて、お金持ちだったし」。

私の参加した2月のパリ・グランパレ・エフェメールでの「コンパレゾン」に再びスロヴァキアから来ていた指揮者マリオと二人で私の絵を見に来てくれた。「あんたの絵、日本的な色」と評してくれた。国籍こそフランスだが、日本ルーツの私は少し嬉しかった。

フジコに恋愛について話してもらった。私も大変関心のあるフジコのたどる人生に影響を及ぼしたと思われる人々との出会いである。

「そう、私は情熱的で惚れっぽいし、一人でいたくなかったので、誰かいい人がいればと恋愛したけれど、どれもこれも結局続かなかった。あんたが言うように間違っていたかもしれない。相手にものすごく要求や期待が多すぎた。神様じゃないから、欠点があっても寛大になるべきだった。恋は盲目くらいじゃないとできないってこと。全部目を開いてみたら、なんだ、こんな人か、ってなっちゃう。『恋は命』とジュリエット・グレコが書いている。私はずーっと50年間恋ばかりしていて、最後の3人はゲイだった。でもそういうタイプが好きで、感性が繊細で普通の人と違う」

それは私にも良く分かる。この18世紀の古き良きアパルトマンの通りはパリ有数のゲイ街である。

展示会場の2階から、エッフェル塔を背に

パリへ

「若い時ドイツから何回もパリに遊びに来た。1泊だけのバス旅行で2千円くらいの安ツアーで。本当にパリを楽しんだ。エッフェル塔にも登ったわ。アメリカ人の女の子がたくさん来ていたわね。こんな街に住みたいなとつくづく思った。しかし、まさかこういう人生が来るとは思わなかった」

パリにあこがれ、いつかここにアパルトマンを買おうと考えていたフジコは、それを実現したのだから意志が強く努力の人である。「華の都パリって言うじゃない。本当にそう、窓の作りでもドイツと全然違う。ドイツは冷たい墓場の十字架みたいな感じに見えるけど、なんであんなのが好きなのか」

パリのアパルトマンの建築と窓は一つとして同じのはなく、ただ一つの規制は色だ。「ドイツ人とか日本人の性格は、変わったものをクスクス笑ったりする国民性で、特に日本の女性は直ぐクスクス滑稽なものに対して笑う」とフジコ。ここでは同じものではなく、ユニークさを求める。ここでは何でもできるけど、その人の生涯でどれだけのものを作ったのか、書いたのか、演奏したか、その人の一生を見る。日本の場合一回賞を取って名前が出たらそれで「先生、先生」って。昔からミュージシャンもアーティストも皆パリを目指し住んでいる。「不思議、ショパンもジョルジュ・サンドもドラクロアも。それって磁石みたいに引き付ける」が、磁力が強くてそれでペッタンコになる人もたくさんいる。

「今年もたくさんのコンサ-トが入っていてたくさんのお金が入るけど、そんなにお金があっても私はこれ以上の家やお城を買って住むつもりはない。もっと自由にいろいろなことがやりたい。例えば、思い深い場所を訪ねたり、ノルマンディの海岸を散歩したり、ゆっくりと旅行したい」

今回は久しぶりに1月下旬から3月下旬までの長期滞在でゆっくりできたが、パリのコンサ-トが3月19日。その後、すぐウイーンとハンガリー、そして日本へ。アメリカが7月、その前にちょっとパリへ。

好きなパリにいると年齢も忘れるし、元気になるし、あと20年くらい演奏活動を続ける?と聞くと「ウワー、冗談じゃない」と大笑い。おおらかで頑張るフジコを見ると私は元気になる。

フジコとトモコ、パリのアパルトマンで

フジコと指揮者マリオ、パリのカフェにて

ピアニストとして今日まで

人間としてピアニストとして一番大事にしていることは何だろうと思い、尋ねると「私は80年代、ベルリンでカトリックの洗礼を受けたので、それに答えるため、いつも自分を正しい生き方、清らかな生き方ができるように心がけている。そのために人間は『生』を神さまから頂いていると思う」。

長いピアニストの人生の中で、一生に残る思いで深いエピソードは?

「私は惚れっぽいのでやたらにいろいろな男性に恋をしたけど、やはりバーンスタインやカラヤンは忘れられない男性」と。それはベルリンやウイーンで素晴らしい人達と出会い恋愛したのだった。ピアニストがみんなそんな経験をしているわけではないので、あなただからでしょうね。恥ずかしそうな笑いの後「さあ、分からない」と。

長い演奏活動で精神的にも肉体的にも大変ですが、どの様なことに注意していますか?「私はミスが多いので、ミスをしないように何度も何度も練習を繰り返している。でもミスが出るのは、私はその度に違う弾き方をするから」。

それは様々な可能性があるが、普通の人にはできることではない。「楽譜どおりに弾くのはアカデミックと言って、それは石頭で私はそういうことは嫌い。そのたびに違う弾き方をする」

日本のピアニストはアカデミックな弾き方をする人多いけれど、フジコは若い時から日本のピアノ教育とは別な指導を受けた。

「母には怒鳴られてばかりだったけど、他の人が私を誉めると母は喜んで、『私の娘だもの』と」。嬉しかった思い出のひとつだ。フジコにとって最愛の母であり最高のピアノ教師であった母の思い出は尽きない。

(photo:Yuma)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。