私が初めてパスカル・ニオに会ったのは、パリのシャンゼリーゼ近くの大きなサロン展示会場グランパレだった。約5年前、友人である天竹博子の紹介で彼の作品をその時初めて観ることができた。大きな作品に落ち着いた色彩で描かれたパリの風景だった。昨年(2022年)の10月、パリのセーヌ通りのエチエンヌ画廊で開催された天竹の企画によるグループ展に彼と共に招待されて再会した。そして今回23年10月23~28日に開催される「ギャラリーデゥラングル」の東京企画展にも私とパスカルは招待された。彼は画家だけではない。1979年にフランス最高のパティシエ職人の称号を授与されている。その他に「国家功労勲章騎士」「農業 功績の騎士」等を授与されており、フランス料理アカデミー名誉会員でもある。
展示会場でのパスカル・ニオ
パスカルにインタビュー中の筆者(トモコ)
豊かな家庭環境が絵画とお菓子作りを合体させた。
天竹宅でのインタビューに、いつもの様に満面の笑みで、言葉巧みに次々と答えてくれた。
「生まれはシャンプラン(パリ南西16km、パリの牧草地帯といわれる)。私が3歳くらいの時、母がクレヨンを買ってくれました。それからデッサンにのめり込んだのです」
4歳のとき、彼は高級ホテルに住んでいた。「自分のデッサンをホテルのレストランオーナーに見せたら、ケーキをくれたのです。それが私の一生を決定した感じです」
フランスのツール市とナント市でお菓子作りの傍ら夜間の美術学校で学んだ。美味しいものが好き、絵を描くことが好き、これを合体させて彼は今日まで自分の夢を実現してきた。
「母はオートクチュールの仕事、父はエンジニアでした。私は3人兄弟の真ん中で育ちました」。さらに、パスカルのいとこの1人は、当時非常に有名なパテイスリーショップ、クレルモンフェラン近郊のオビエールにある「メゾン ピロナン」を所有していた。こうしたマルセル・パニョル風の温かい雰囲気の中で彼はお菓子の世界を発見したのだった。「お菓子の展覧会でお菓子のアートに出会い、これこそ私が探し求めていたことと一番合っていると分かったのです」
フランスの伝統的な中産階級で何不自由なく育ったような印象だったが、私の一番知りたいことを聞いてみた。絵を描く事とお菓子を作ることを両立させたのは一体何か?
「私にとっては二つとも同じ仕事です。お菓子を作るのに粉やバターや卵など指で混ぜたり香りや色を付けて、一つの物を作っていく過程はキャンバスに自分の構想を描き、色を付け仕上げるのと同じです」
なるほど、しかしここまで材料が違うのにもかかわらず、同じこととして作り上げている人に私は初めて出会った。彼は自然に二つの事を成している。大きな情熱があればこそ成し遂げられたことであろう。
天竹博子と
パティシエ・ジャーナリストのソニア・サディと
1979年の最高パティシエの受賞記念写真
パリのフェランディ・パテシエ・クラスの生徒たちと
フランスが生んだお菓子作りの名家ダロワイヨ(Dallyau※1)
1972年、彼はコンベンション通りにあるダロワイヨのブティックに入社し、その後、このメゾンの様々なポジションを転々とした。当時、このパティシエ、ショコラティエ、菓子職人、アイスクリームメーカーは、「おいしい食べ物」の創作を実験していた。彼は料理と芸術作品の新しい研究所の所長にもなったのだった。
74年にシャルル・プルースト賞グランプリを受賞。79年に、マルク・ドゥバイユール、ジャック・フルモン、ジャン・マリー・オズモンとともに、フランス最高のパティシエ職人という栄誉ある称号を獲得した。その後、彼は東京に最初のダロワイヨ・ブティックをオープンするために日本を訪れた。その後、十数店舗のオープンのために何度も日本を訪れたという。彼の忍耐力と共に東京の超高層ビルに1カ月間貼り付けられた巨大広告も功を奏し、マカロンの商業発売の原点と称された。
フランスではマカロン開発の先駆者の一人でもあり、マカロンから数多くの着色料や添加物を取り除いたのだった。同時にフランス料理アカデミーの正会員に迎えられた。1996 年に、ダロワイヨのスイート/ セイボリーパティシエ、創造的研究および研究責任者に就任し、世界中 (韓国、クウェートなどでも) での新しい販売拠点の開設に参加した。この時、彼はスイーツへの情熱を語るために数多くのテレビやラジオ番組に出演したのだった(Télématin、Ciel Mon Mardi、France Culture など)。
「その頃、日本人の将来性のある若い人達に会い、日本人の有能さを知ったのです。新しい世代が進化していくのを見るのが本当に好きです。私は創業当時からノウハウやマネジメントの面で、若手への伝承と育成に特に力を入れてきました。私は常に、一緒に働く従業員の健康に細心の注意を払ってきました。特に素晴らしいと思った人は熊坂孝明さんです。当時『ホテルオークラ』でパテシィシエシェフであった熊坂さんは、フランスのダロワイヨで何年も修行し、有数なお菓子のコンクールで日本人で初めて金メダルを取った人でした。彼に関してはいろいろなエピソードがあるのですよ。一緒に修行していた他のフランス人に『お菓子を盗むためのスパイでここに来たんだろう』とか。そのためレシピはもちろんのこと、お菓子が少し散らばっている傍も近づくことができなかったそうです。レシピなどは、ボスが帰る時に引き出しに入れ、頑丈な鍵をかけていました。彼はフランス人と闘うためには賞を取ろうと、努力していくつものコンクールに挑戦しました。そして素晴らしい成果を上げたのです」
この熊坂さんもパスカル同様スュークルダール(砂糖の芸術)が得意だった。飴細工のようだが日本の飴細工とは違う。昔は宮廷や貴族たちが好んで作らせ、今は結婚式やパーティを豪華絢爛に彩る砂糖で作る立体彫刻や絵画で、2~3メートルの高さまである大作をパティシエが工夫を凝らして作り上げる芸術作品(※2)である。
2015年、パスカル・ニオは、グラン・パレで開催されたソシエテ・デ・ アーティスト・フランセ展のキュレーターとして、芸術と美食の珍しい出会いの仕掛け人にもなった。6人の職人ショコラティエ(ニコラ・クロワゾー、マルク・リヴィエール、フランク・ミッシェル、バス ティアン・ジラールを含む)は、画家、彫刻家、写真家、建築家など、他の600人ものアーティストの前で自分たちの作品を披露したのだった。
何よりも古典的なフランス菓子のファンであるパスカル・ニオは、時代やトレンドとともに進化することに成功した。「ダロワイヨでは、開発や技術の進歩に常に注意を払いながら、そのたびに自分の個性を加えようと努めてきました。そして、肝心のテイスティングの瞬間に顧客が味にガッカリしないことが肝心です」
パスカルのキャリアの秘訣は「忍耐力と革新性」という 2つの本質的な資質を持ち合わせているからだろう。「ダロワイヨでの私の主なモットーは、『愛し、コミュニケーションし、忍耐すれば生きられる』でした」。そして、パスカルは何と京都で何カ月間か、和菓子の作り方も勉強したという。
パスカルの絵画作品
白タイルを合せたような絵
パスカルの作品で特に目に付くのが、キャンバス上の縦横の線でバックがまるで白いセラミックの様なタイルに見える。
「ああこれですか、初めは小、中作品を張り合わせて大きい作品に仕上げたのが始まりです。そのうち直接描きこんだりしましたが、私の作品はマロフラージュ(紙をキャンバス等に貼って変化を付ける)で200g 程度の紙を揉んで張り、その上にジェッソを塗りそして油彩で描いたので1す。これはマニエチスムでマニヤックな私の性格にピッタリです。TV にも何回も出演し、20カ国の参加者のなかでグランプリをもらいました。食事の事、スープの事、お菓子の事などで50本くらい私の映画が作られています」
様々な側面を持つビジュアルアーティストであり、絵画の美とグルマンアートの間を行き来する豊かな人生を選び、努力して実現した人だ。「どちらの場合も、構造とボリュームを操作します。主な違いは、一方は食べられるものであり、もう一方は食べられないことです」と。表現主義者であり具象芸術家のパスカル・ニオは、メゾン・ダロワイヨへの度重なる訪問も彼のインスピレーションを育み、彼に新たな分野を切り開かせている。
1990年以降、展覧会でさまざまな賞を受賞している。(アンギャン・レ・バンの市街博覧会での金メダル、国民議会での金メ ダル、2012年パリのソシエテ・デ・アーティスト・フランセ・デュ・グ ラン・パレでの金メダルなど)。さらに、フランス全土の数多くの絵画展で主賓を務め、数々の絵画部門でも賞を取っている。同年フランスアーティストサロンで金賞を受賞した
パスカル・砂糖の芸術作品写真
※1 ダロワイヨ:1802年に創業。フランスを代表するガストロノミーの一つ。その歴史は1682年シャルル・ダロワイヨがヴェルサイュ宮殿にてフランス王家の食膳係りとして美食作りを追求。現在も引き継がれている素材と製法へのこだわりの伝統と共に、高い創造性も追求している。
※2 芸術作品:私事だが約30年前にリヨンでグループ展に参加した時、その会場でフランスのお菓子のコンクールが開催され、私はアーティストの代表としてお菓子の審査委員に指名された。10名ほどの審査委員とともに出されたお菓子を一口食べ紙に評価を記したことがあった。見た目の美しさ、バランス、味など、絵を見る様な感覚で評価したら、私の最高評価を得たお菓子が最高賞を取ったのだった。審査の感想を聞 かれ、広い会場に響くマイクでフランス語で画家として話したことがあったが、今思うと恥ずかしくも楽しい思い出である。