プロローグ
パリ3区はマレ地区といわれる。かのバスティーユ広場も近く、貴族の館を美術館や博物館にした地域である。約18年間「ギャラリ・ド・ラングル」のオーナーだったマダム・コレット・コルブランはそのマレ地区の画廊を手放し、1年前に彼女の故郷ル-アンに新しい画廊を開いた。私は以前旅行でルーアンを1日観光で訪れた事があった。今年(2024年)マダム・コレットは私の個展を5月15日から25日の期間に企画してくれた。今回は自分の個展を通し、4日間過ごしたルーアンの街を読者に伝えたい。
ギャラリ・ド・ラングルは昨年10月23日から28日に銀座6丁目のギャラリー暁で4人のアーティスト(アメリカ人マリー・リプラン、フランス人パスカル・ニオとジャン-ルック・ラングロア、そしてフランス国籍でオリジナルは日本人の私トモコ・カザマ-オべール)の展覧会を企画したのだった。
北フランスの古都ルーアン
パリのサン・ラザール駅より列車で1時間30分でル-アンに着いた。パリから136kmほどだが、TGV(新幹線)はこの北及び西フランスにはないので、のんびり窓より羊や牛を見ていた。子馬がお母さんの後を細い足で一生懸命付いて行くのが目に入って微笑ましかった。
ルーアンは中世からの古都で大司教座が置かれ、大聖堂はフランボワイアン・ゴチック形式の代表であり細かいレースの様な彫刻や丸みの窓が特徴。これにインスピレーションを受けクロ-ド・モネは聖堂の色彩が刻々と変わる様子を連作として描いたのだ。確かにパリの石の建築物を見ると、天気により又は太陽の位置により、白・ローズ色・山吹色、などに変化するのを見ることができる。戻って百年戦争(※)で捕虜となったジャンヌ・ダルクは1431年この町で火刑に処せられた。その後彼女の汚名は払拭されたが、政治と宗教そして権力者(当時イギリス王の支配下にあったパリや北フランス)の思惑でジャンヌ・ダルクは悲惨な最期を遂げたわけだが、今も同じことが世界中で繰り返されている。
ルーアンのノルマンディー様式の木組みの家が立ち並ぶ細い道は中世の面影を彷彿とさせる。しかし第2次大戦のノルマンディー上陸作戦の連合軍(主に米・英軍その他)で飛行機により街は壊滅的に破壊され多くの人が犠牲になった。何日か前に住民に飛行機から爆撃予定のビラが撒かれたが、どこに逃げたらいいのか、戦場下南仏まで逃れられた人はごく一部であろう。ドイツ軍が占領中だったので、その為の爆撃や攻撃は、沢山のノルマンディーの人々が犠牲になったのだ。カテドラルは原型をかろうじてとどめたが、当時の写真等見ると街は瓦礫の山。しかしこれでドイツ軍の戦車は身動きできなかったので、これも戦略だったのか。
画廊とその周辺
今回初めてコレットの画廊に来たのだが、近くにルーアン美術館などがあるいわゆる美術館地区と言われている地域にあった。駅から徒歩で10~15分程の所にある画廊だが、天井が高く丸めた大きな作品(カケモノ・スタイルで2mx1.5m)を3点程展示し、他に中・小30点程展示することが出来た。訪れた人たちはこの大きな作品に目がいったようだ。画廊は観光客や町の人の往来がある通りに面している。画廊から少し下るとカテドラルやジャンヌ・ダルクの処刑された場所がある。小さい町なので、どこでも歩いて古い木枠の家を見ながら散歩できる。これらは戦後修復され、他のフランスの街同様に昔の街を蘇らせたのだ。
コレットはここで仏語の教師であり言語学教授の夫フランシスと知り合った。彼は筑波大学に招待され何回か日本にいったことがある。彼も展示を手伝ってくれたので大いに助かった。2週間前にコレットとフランシスはパリまで車できて、私の作品35点を積み込んでルーアンへ、そして終了後はパリまで運んでくれた。
宿もまた画廊の近くに格安の宿を予約してもらった。木組みの古い情緒のあるアパルトマンを宿にしているのだが、コレット夫妻の様に現地にいる人だからこそコネクションがあって予約も可能なのだった。
宿の近くに立派なルーアン美術館があり、入場が無料というのには驚いた。1回目はダビッド・ホックニーの作品を目当てに、2回目はそのほかの沢山の絵画をゆっくり見て回った。印象派時代の良い作品が目白押しだった。見学者も多く、日本からTVスタッフが美術館の責任者と絵画を撮影していた。ルーアン特集で9月に放映とか。
面白かったのは、近くの公園で小さな滝が幾つか池に流れており、私はその芝生で横になっていたら、4、5歳児を14、5人引き連れた保育者が子供たちを座らせ、大人でも難しいこの滝の写生を始めさせたのだ。子供たちは誰も滝など見ないで、それぞれ好き勝手に描いていた。
ジャンヌ・ダルク博物館は圧巻だった。プロローグでも書いたように、現在の戦争にも現れる同様の思惑を切実に感じた。この町の旧市街にジャンヌ・ダルクの処刑の場があり、そばに聖ジャンヌ・ダルク教会、その向こう側にフランス最古の宿坊(1345年)があり、現在も高級レストランとして世界中から美食家が集まり、フランス料理の中でも特別な料理方法の鴨を堪能しているとか。パリから個展の初日に駆けつけてくれた友人アーティスト「ゆりこ」と一緒にこの鴨を食べた。良い値段だったけれど忘れられない味で、いつかまた食べたくなる味だった。
港町ル・アーヴルへ
4日間ルーアンに滞在したのだが、オープニングが終わった次の4日目の朝、ルーアンより列車で1時間の海辺の町ル・アーヴルにいった。今回はパリへ戻るルーアンからの午後の列車に乗るため、ゆっくりできないので海辺でムール貝でも食べて帰るだけ。
始めてきた所だが、海辺から沖合に幾つもの大型コンテナ船が左手の港湾に向かっており、セーヌ川河口が西にある。港湾規模で南のマルセイユに次ぐもので、大西洋岸ではフランス第一位の規模だそうで、北西部の大西洋の外海に面しているため大型コンテナ船の直接寄港が可能なのだ。ル・アーヴルやルーアンの人たちも沢山この港での仕事に従事しており、昔から現在まで港を通して豊かになったのだ。モネが1872年にル・アーヴルの港を描いた「印象 日の出」は有名で、それから印象派の元祖となった。
もちろんムール貝は美味しくて、値段も安い。
※百年戦争 1339~1453年の間のイギリス王とフランス王の戦争。王位継承・領有権等で対立長期化し、その間に農民一揆や黒死病の流行などもあり、両国とも封建領主層が没落し、王政による統合が進み国民国家形成に進むという社会と国家の大きな変動がもたらされた。闘いはフランス領内で展開された。(Gougle より参照)