アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.34

児童文学作家-漆原 智良-

漆原智良氏の読書講演会が4月16日に宇都宮市の市立南図書館で開催された。漆原智良氏は講演の最初に『僕と戦争の物語』(発行・フレーベル館/絵・山中桃子/2014年)の作品を発表した経緯を語り始めた。作品は戦争の非情さ、残酷さを少年の目を通して浮き彫りにしていた。多感な少年期を戦時下に生きた日本中の子どもたちの代弁者として声をあげているような講演に、氏と同世代の来場者たちは大きくうなずいては目を赤くし、若い世代は真剣な表情でじっと耳を傾けていた。満席の会場は感動の波が広がり、やがて、涙と笑いとなって、あっという間に講演会の時間が過ぎていった。

児童文学作家・教育評論家、漆原智良

『僕と戦争の物語』の原点

2014年に『僕と戦争の物語』の児童書を発表した氏は、自らの戦争体験の講演を依頼されて各地に赴いている。今回の取材を南図書館での講演会前に応じてくれた氏は、やわらかい笑顔の中にも時には厳しい表情を浮かべながら、「戦争の物語」となってしまった自らの体験を話してくれた。

「私は東京の浅草に生まれましたが、昭和19年(1944年)になると戦争が激しくなって、いのちは国のために捧げろと、自分のいのちでありながら国のいのちと言われて育ったのです。

日本が危なくなってきても危ないという言葉使えない。疎開ということは逃げるんですか?というと、今度は逃げるという言葉も使えないものですから、『君たちは将来日本のお国のために戦うのだから』ということで、父方の田舎(福島県)に疎開しました」

漆原氏が疎開しているその間に、両親や祖母は東京大空襲で亡くなってしまった。疎開児童だった氏は一夜にして戦災孤児となった。

「私が小学校5年生の時でした。何しろ東京のお坊ちゃま育ちですから、疎開したら、縄をなうことはできない、馬の糞を拾うことができない、材木も運べない。疎開したところでは子どもたちも過酷な労働に耐えなければならなかったのです。昭和19年までは父母も元気で祖母もいたのに、一年たって東京へ戻ってみると、家族はいない、家はない。私の親友の少年は病気になって栄養失調になっていた。戦争は平和な家族を、元気な少年たちを、過酷な運命に追い込んでいく。これは書き残しておかなければいけない、いのちの尊さを書き残さなければならないと思ったのです」

取材に応じる漆原氏

南図書館で講演

立松和平を背におぶって

戦争で家族も家も失った漆原氏は、終戦後は、栃木県に疎開していた母方の祖父母に引き取られ学校に通う。しかし、戦後の混乱の中でやがて生活に窮するようになってしまったという。

「祖父は時代劇の脚本家だったのです。ですから川口松太郎や邦枝完二などの小説家や劇作家などと親交があって、お伺いする時は一緒に連れて行ってもらいましたね。その祖父が筆を折ってしまいまして、それから中学校2年生で学校に行かずに働くことになりました」

しかし、14歳の少年の仕事には限りがあった。靴磨きなどではわずかなお金しか手にできない、下駄屋さん、鍛冶屋さんなどにいくが、職人技のような仕事は少年には難しく勤まらなかった。途方に暮れる日々を過ごすうちに宇都宮の駅前にあった横松電機屋の主人が声をかけてくれた。

「横松電機屋さんに拾われました。うちに来ないかと言ってくれたのが、後に作家となった立松和平(1948-2010年)のお父さん、横松仁平さんです。立松和平の本名は横松和夫です。戦後は平和の和をとって和夫という名前の子どもが大変多かった。お父さんの仁平から「平」を取って、和平としたのです」。奇しくも同じ物書きとなった作家、立松和平との出会いを懐かしそうに話す。

漆原氏は昭和23年〈1948年〉に横松電機店に勤めているが、横松家では前年に長男、和夫が産声をあげた。

「学校に行かずに電機店で古いモーターの錆を落としたりコイルを巻いたりしていました。学校帰りの同級生が店の前を通り、のぞいては『漆原は学校に来ないでこんなことしている』と冷やかすのをじっとがまんしていると、横松さんが『つらかんべぇ、裏に隠れてろよ』と言ってくれて、同級生が通る頃になると裏に行かせてもらいました。そのとき背中におんぶしていたのが後の『立松和平』です。私は戦争によって両親も家もすべての物を失いましたが、一つだけ残っている財産がありました。それは母がいつも私に話してくれた物語が心のうちに残っていました。心の中のものは出すことができますから、『かちかち山』や『桃太郎』など、母に聞いた話をおんぶしていた和夫ちゃんに聞かせてあげたりしていました。私は仁平さんが『漆原君、つらかんべぇ。これからはね、実力をつけなければいけないよ』と言ってくれたのを今でも覚えています」

漆原氏は後にこの体験を『つらかんべぇ』(発行・㈱今人舎/2011年)という本にしている。

その後、時代が変わり横松電機店は厳しくなって店を閉じていくが、漆原氏は横松仁平氏の兄が経営している編み物店に勤めることになる。

「後に作家としてデビューした立松和平に会うと和夫ちゃん、大人の本もいいけどね、夢をあたえる子どもの本も書きなよと言ったんです。そしたら彼は書いたんですよ。『山のいのち』『川のいのち』『海のいのち』を書いた」。『海のいのち』は教科書に掲載され、全国の学校の授業で取り上げられた。

講演会で

動画と朗読「ど根性ひまわりのきーぼうちゃん」

日本で一番厳しい生活をしている地域へ

「これからは実力をつけなければ」という横松仁平氏の言葉を胸に、漆原氏は、宇都宮商業高校夜間部から法政大学の二部を受験。「二十四の瞳」の映画を見て感動し、孤島の教師となる夢を追っていたからである。宇都宮市のブリヂストンの会社で夕方まで働いてから、夜間は法政大学に通うという強行スケジュールを4年間通して卒業した。

「夜、大学で学んで池袋(東京)の下宿で朝4時まで泊まって、5時の電車で宇都宮にきて働きました」

卒業後、東京都の教員採用試験に合格した。「戦争は人間を一晩でどん底まで落としてしまいます。私はどん底まで落とされたから、日本で一番厳しい生活をしている地域の学校に赴任したいとお願いしたら、『八丈小島』ということでした。ところが東京から船が遅れて採用通知が来なかったものですから、栃木県の学校に勤めた後に採用通知がきましたので、事情を話して15日後には八丈小島の学校に赴任しました」

八丈小島で25人の子どもたちとまさに生活を共にした。「どんなことでも、今までの丁稚奉公を思えば、先生と呼ばれて、子どもと仲良くできて、本当に楽しい生活でした」と当時を振り返る。

八丈小島の学校では4時に授業が終わると5時まで床屋になって島の子どもたちの頭をきれいにした。6時から7時に家での夕食後、夜8時からは30軒の家がある島中を回って、お巡りさんの代わりもした。

「そうしていたらどうしても男性ですから、生活ができなくなってしまい、今のかみさんをもらいました。妻は乳が出なかったので、ヤギの乳で息子を育てましたが、八丈小島が無人島(1969年より過疎化、生活条件の厳しさなどから全島民移住開始)になる時に、ヤギを10頭逃がしてきたのです。その10頭が約1000頭に増えたので殺すと聞いて、なんとかヤギを助けたいと思いそのことを本に書きました。本の力というのは偉大なもので、一人の国会議員の方が、八丈小島まで来て現状を見て助けてくれた。今ではそのヤギたちは元気にヤギ楽園で育っています」

芳賀町の学校が無くなるというので、やはり『学校は小鳥のレストラン』という本を書くと、全国の課題図書になった。

すべての原点が子どもの頃の戦争体験

2011年3月の東日本大震災、日本は未曾有の大地震と大津波、原発による災害に覆われた。

「震災後に、宮城県気仙沼に行き、『東京大空襲から3.11まで』というタイトルで話をしまして、『今、何が欲しいですか』と伺うと、『今、何も物欲しくない』というのです。物を差し上げることよりも、とにかく今大事なのは『忘れないでほしい、風化させないでほしい』ということでした」

『がんばろう!石巻の会』のメンバーが各地に「ど根性ひまわり」の種を配布している。漆原氏は石巻の瓦礫に咲いたひまわりの花を通して震災後の状況を児童書で紹介している。

「今、ひまわりは6世になりましたが、300粒から始まって6年、ひまわりの種を各地に分けて広める運動をしています。ひまわりが咲いたら『被災地はどうしてるかな』って思い出そうという運動の一環として、私にできる事として『ど根性ひまわりのきーぼうちゃん』という本を書きました。そういう運動を皆さんどうぞ忘れないでください。弱い力かもしれませんが地道にやっていきたいなと思っています」

漆原氏の本を書く原点は子どもの頃の戦争体験であり、母がいつも昔話を話して聞かせたり絵本を読んでくれていたことだという。

「そして、一日一行でも日記を書きなさいと教えられました。厳しいお母さんだなと思っていましたが、今考えるとそのおかげで、和夫ちゃんにお話を聞かせることができたし、ものを書くことができるようになりました。今のお母さんたちも、まず足元を見て、子どもを抱きしめて本を読んで聞かせるところから始めるといいかなと思います。今日のお話のすべての原点が戦争体験からですが、これからも本や講演会を通して運動を広めて行きたいと思っています」

講演会の最後に取り上げた絵本は、戦争で家族を失った漆原氏が祖父に引き取られて育った地、芳賀町を子どもたちに紹介するために書いた絵本であった。

「芳賀町長と新宿の喫茶店でお会いしましたら、実は僕は当選したばっかりなんだ。町を紹介するのに子供に分かってもらいたい。解説書はいっぱいあるが童話で描いてもらえないかと……。そういう意気込みがあるならお手伝いさせていただきますということで、はがまるくんと東京に行った子ども万智子さんを主人公にして書き上げました。12月いっぱいで立松和平の長女山中桃子さんに絵を描いてもらって3月に出版できました。これを読んだ子どもたちが何かを気づいてくれればいいなと思います。将来、自分の町ってこんないい町だったんだって気が付いてくれればありがたいですね」

『ぼくと戦争の物語』

『東京の赤い雪』

『つらかんべえ』

『ど根性ひまわりのきーぼうちゃん』

『天国にとどけ!ホームラン』

『万智子とはがまるくんの芳賀町探検記―かぐわしき黄金の大地を行く―』

漆原 智良

児童文学作家、教育評論家。1934年東京・浅草生まれ。法政大学文学部卒。東京都の公立小・中学校で28年間勤務後、依願退職。立教大学、実践女子短期大学、秋草学園短期大学講師。NHK懸賞ドラマ『近くて遠い島』で一等入選、NHK放送記念祭賞受賞。第45回児童文化功労賞受賞。社団法人日本児童文芸家協会顧問。1945年から2年間、南高根沢村(現・芳賀町)で過ごした。