アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.44

声楽家 下村 洋子 ―愛を歌う―

「お姉ちゃん」の影響で音楽の道へ

「今回は75歳の記念コンサートです。伴奏をしてくださる岡田知子さんは素晴らしいピアニストで私が120%信頼している方です。私が60歳の時に還暦コンサーを、引退のつもりで岡田さんといっしょにやりましたでしょ。そしたら岡田さんに『何を言っているの洋子さん、これからよ』って。それからずっと続いています」

まるで女学生のように楽しそうに話す声楽家下村洋子さん。良く通る声と透き通るような肌の顔は艶やかで年齢よりはるかに若やいで見える。音楽を始めたのは小学校の3年生の頃という。地方ではピアニストも少なく、ピアノを習っている子どもたちもほとんどいなかった時代であった。

「私が子どもの頃から『お姉ちゃん』って慕っていた人が、道路を隔てた前の家にいらっしゃって、いつも歌を歌いながらピアノを弾いていました。聴いていて『あー、私もやりたいな』と思いました。そして母にねだってピアノを習い始めたのです」

下村さんが音楽への道に進むきっかけとなった『お姉ちゃん』は、何と、現在84歳で下村洋子さんの生徒として歌を続けているという。

「もともとピアノが大好きでピアニストになりたかったのですが、ピアノ科に入るには一日5時間から8時間くらいの練習をしないと入れませんので、そんな練習は私にはたまらないと思っていましたら、『歌はどうかしら』って言われて、結局声楽の道へ進みました」

3年生から6年生まで好きなピアノを習っていたが、高校受験が大変になる中学生の時期にはピアノのレッスンを止めている。その後、志望高校の栃木県立宇都宮女子高校に入学したが、「これからはどうしよう」と思ったときに、「やはり私には音楽しかない」と、一からピアノと一緒に歌を習い始め東京芸術大学を目指して見事合格した。

「芸大はみんな凄いんですよ。『私はカルメン歌いになる、私はオペラ歌手になる』なんて人がほとんどでしょ。私は田舎(宇都宮市)から出て行って、とにかくびっくり。この人たちの中で私やっていけないんじゃないかって思うぐらいでした。その時、私がついていた戸田敏子先生が『あなたは芸大タイプじゃない。私立に行った方が伸びると思う。芸大の中で揉まれるのはかわいそうだわ』っておっしゃった。でもぽっと入っちゃったんですけどね」と、また可笑しそうに笑う。華やかで自信に満ちた声楽家の笑顔である。

大学院を卒業してからは二期会で活躍、洗足学園大学講師などの日本の音楽界の道を進み始める。

声楽家 下村洋子さん。自宅にて取材後

60歳の記念コンサートで

岡田さんとのデュオコンサート(2009.5)

記念コンサート後のパーティーで友人たちと

日本のものを全部捨てて

「いろいろ音楽会に出させていただいたりオペラに出させていただいたりしていましたが、30歳になった頃『私このままいたらもう歌えなくなる』と思ったのです。相当無理して歌っていた。これは何とかしなきゃいけないな思って、ドイツに行くのが夢だったので、勉強するなら今しかないと思ってドイツに留学しました。行ってからの身構えは日本での場合と全然違いました」

下村さんはドイツ国立フランクフルト音楽大学に留学。大学では往年の名歌手ゲルトルーデ・ピッツィンガー氏らに師事している。

「何十回歌ったかわからないくらいの自信満々の曲を持ってレッスンを受けました。しかし、ピッツインガー先生のところに行ってたった2小節しか歌わせてもらえなかったのです。それから日本で培ったものを全部捨てました。それがあったから今も歌えるのだと思います」。ピアニストの岡田さんもドイツで日本のものを全部を捨ててやり直したという。

「だからこそ今も素晴らしいピアニストです。根本から違います。日本は楽譜通り正しくそれができれば、いっちょあがりだけれど、そこからが作るのが音楽ですから、本当にもうこれは大変だと思いました。実際には留学した方でないと分からないと思いますが……。すばらしく良い声で日本では凄く優秀だった人が1年行って勉強して帰ってきても、たとえ日本の音楽との違いが分かっても、結局捨て切れないから元に戻ってしまう。元の木阿弥になる人が多いのです。今の若い人は教える先生も向こうで勉強してきた人がたくさんいますからそれほどではないですが、私たちの時代はやはり違いましたね」

ドイツでの生活は、肉類を食べないうえにジャガイモを食べない下村さんは食べるものに苦労したようだが、当時の日本と違ってパンとチーズは美味しかったと話す。

「ご飯は炊いてましたね。ザワークラフトをざるで洗って、ちょっとお醤油と生姜のせて日本の古漬けみたいにして食べてました。後はタッパーウェアにパンを糠の代わりにして、大根やキュウリなどの野菜を漬けてました。日本食品屋さんはありましたけど高くてとても買えませんでしたから」

日本が大好きなドイツ人の所に下宿をしたおかげで随分助かったと当時を懐かしむ。今はすでに恩師も下宿のおばさんも親しい友人も他界してしまっている。「フランクフルトに行っても当時の方々はもう誰もいない。青春の思い出、財産です」

ドイツからの
帰国リサイタルのポスター

夫 下村徹氏と(徹氏取材時撮影)

夫と出会って

ドイツからは36歳で帰国、兵庫教育大学の助教授の公募に応募して採用される。「生活しなければいけませんから、受けたら通ったんです。だから一応国家公務員としてお給料がもらえる生活を確保できたわけです。音楽家の演奏会だけでは食べていくことは大変なことでしょ。私が結婚を考える時はいつも逃げ道だった。生活するのが大変だから誰かに食べさせてもらうために結婚しちゃおうかぐらいのことだったので本当には納得しませんでしたから。兵庫教育大学が決まった時点でこれなら結婚してもいいかなと思いました。そう思う時にちょうど紹介していただいて夫(下村徹氏)と出会ったのです」

大学には3年近く勤務していた。東京と兵庫の行ったり来たりが大変になっていたが、夫の仕事でアメリカに行くことになって大学を辞職。夫と共にアメリカで1年2ヶ月間暮らして帰国した。

「主人は音楽のこと何も分からないのですが、私はそれがいいんです。ああだこうだと口を出されたら私はカッとする方だから駄目だったと思います。主人はありがたいことに私のコンサートには必ず来てくれますが、『今日はどうだったの?』と聞いてくるんです。『聴いている人が判断することじゃないの』って、私が『どうだったの?』って聞くと『綺麗だったよ』って。歌が綺麗だったのじゃないと思うんですよ。ドレスを着たのが綺麗だった、舞台が綺麗だったということだと思います。しかし、何をしても『ありがとう』と言ってくれる。それが凄いと思います」

夫に励まされ支えられている様子が微笑ましく伺えるエピソードである。夫の下村徹氏は作家である(徹氏の父親は代表作『次郎物語』で著名な作家、下村湖人/ビオスフロントインタビューNo.40参照)。ご夫妻とも海外生活を経験しているせいか、またはお二人の感性故か、日本人の中年以上の夫婦の馴れ合い生活からはほど遠く思える。

「主人は何か書いたら必ず私に読んで欲しいと言って原稿を読ませてくれます。句読点や漢字などの校正をは少ししますが、文章的なことはそのままで、読み終わってから感想などを言いますね」

恩師ピッツィンガー先生

「私の先生は往年の名歌手ゲルトルーデ・ピッツィンガーで、私が留学したときは70過ぎていらっしゃいました。なぜ私が60歳で引退しようと思ったかという、先生が60歳から一声も発していない。私は恩師が60歳で止めたことに憧れていたのです。『あれが往年のピッツィンガーか』って言われるのが嫌で、まだ歌えましたけれど『引退した』とおっしゃって歌いませんでした。私はそれがずっと頭にこびりついていたのです。私に教えてくださっていた時も自ら歌って示してくれるということは全くなさらなかったのです」

ドイツ人は体格がよくて背丈も大きな人たちが多いと思っていたが、ピッツインガー氏は下村さんよりも小さくてコロンとした体形だったと話す。

「私がピッツィンガー先生について勉強していると言うと、皆さんは『あの人は小さいけれど凄く綺麗な人でしたね』と言うんです。私はいつもピッツィンガー先生を見ていて大変きちんとしておられるのですが、綺麗だと思ったことはなかったんですね。ところがある日、私が初めてドイツでコンサートをしたときに『洋子、とにかく舞台に出る一歩がどんなに大切か、それを気をつけなさい。私はいつもこうして出ました』と言うと、ふっといなくなって自分の寝室に行って、何しているんだろうと思ったら、レースのハンカチをパヴァロッティがいつも持ってるように持ってレッスン室に入ってきたのです。その姿が素晴らしく綺麗だったのです。綺麗だってこういうことかと、だから舞台に出たときのオーラが凄かったんだと思います。ほんとにびっくりするくらい綺麗でした。ピッツィンガー先生はご飯を食べさせてくれて、ブラウスも買ってくれて、レッスン代も最初はちゃんとお支払いしていたのですが一銭も取りませんでした。とにかく勉強させてあげたいと……。素晴らしい先生でした。私を一人前に育てたかったんでしょうね。ありがたかったです。演奏活動もずいぶんやりましたね」

恩師ピッツインガ-氏がご存命のときは、毎年決まって会いに行っていたという。さらに毎月1日には電話をかけて話していた。「それが約束で帰国しましたから」。毎月1日になると氏は電話の前で待っていた。96歳で亡くなるまで愛弟子「洋子」が電話をかけてくるのを待っていたのであった。

恩師ピッツィンガー氏を訪ねて

自宅に飾ってある、若き日のピッツィンガー氏の写真

「愛を歌う」コンサート

下村さんは長年栃木女子刑務所の篤志面接委員であった。特殊な場所でそれぞれ事情のある女性たちが入所している。

「篤志面接委員になってくださいと言われたとき何のことかしら?と。字を見たら、受刑者達に何か援助するのですね。刑務所は私語禁止の世界ですから、私にできることは1ヶ月に1度行ってクラブ活動でコーラスをしたり、みんなで歌を歌って楽しむという時間を持つことです。行ってみると大変暗い世界でした。移動するたびに鍵を次々と開けて、講堂に入っていくと何人かがじーっと待っています。1時間とにかく声を発して歌う。その1時間が経ったときの皆さんの顔は、最初とは全然違うんですね。晴れやかな顔で『ありがとうございました』と。

独房に入っている人は一日中一言も話せない。朝、洗面所で会っても一切の私語禁止である。その中で「歌う」ことは言葉を発する人としての原点に還るのであろう。

「あの時間は楽しかったんでしょうね。演奏会も行いましたが、皆さん泣くんですね。仙台、東京、静岡など、ずいぶん行って歌いました。少年院などでは、この子たちは一体何をしたのかしらと思うくらいです。その後何日か経つと感想文を送ってくれるのですが、こんなに純粋な子どもたちが何をしてこんなところに入っているんだろうと思います」

そのほかにも幼稚園や教会の聖歌隊コーラスの指導なども行っている。独自のコーラス指導が定評である。また、さまざまな音楽コンサートからの依頼を受けている。

「コンサートでは皆さんに親しみのある歌から入っていきますが、最後は私がドイツで勉強してきたものを入れるようにしています。本物のドイツ歌曲はこういうものだっていうのをわかってほしいからです。幼稚園でのことですが、3~5歳児相手に何を歌ったらいいのだろうかと思いましたが、子どもの歌を歌うのがものすごく勉強になったのです。童謡は言葉のエッセンスじゃないですか。まどみちおさんの『ぞうさん』なんて削って削った詩があれだけになった。そこに行くまでに、まどさんがどれほどのイメージを持っていたのか、その書いてない行間を読むというのは、子どもの歌にものすごく大切だと思います」

さて下村洋子さんは冒頭のピアニスト岡田知子さんと10月27日(土)に宇都宮市の南図書館「サザンクロスホール」でデュオコンサートを行う。

「コンサートの第1部は皆さんが知っている歌から始まって、第2部は『愛を歌う』というテーマ、シューマンの作曲した『女の愛と生涯』を全8曲歌います。またオペラ『サムソンとダリラ』を。アンコール曲はピアフを用意しています。その間に岡田さんがショパンの幻想即興曲のソロを入れてくださいます。充実したプログラムだと思いますので、皆さんに聞いていただけるのが一番嬉しいですね」

歌声も歌う姿も「綺麗」で評判な下村洋子さん。かのピッツインガー氏直伝の舞台の綺麗さであったのかと……。今回の「サザンクロスホール」でのまさに集大成のコンサートは、その「綺麗」で大いに私たちを楽しませてくれることであろう。まだまだ歌い続けて日本の音楽界に貢献してほしいと多くのファンは願って止まない。

恩師ピッツィンガー氏らの写真を後に、自宅にて

下村 洋子(しもむら ようこ)

東京芸術大学声楽科卒業。同大学院独唱科修了。

戸田敏子、中山悌一氏に師事。文化放送音楽賞。民音コンクール入選。1974年ドイツ国立フランクフルト音楽大学留学。

ゲルトルーデ・ピッツィンガー、ハンネス・リヒラート、ラルフ・ラインハルト各教授に師事。

帰国するまでヨーロッパで100回を超える演奏を行い、帰国後も数々のコンサート、オペラ等で活躍。

東京芸術大学講師、洗足学園大学講師、兵庫教育大学助教授を歴任。

現在、宇都宮市に在住し、少年院、刑務所、病院などのボラソティアコンサートを中心に活動。

下村洋子 岡田知子 デュオコンサート

日付:2018年10月27日(土)

会場:宇都宮市立南図書館 サザンクロスホール

開場:13:30

開演:14:00

入場料:3,000円

連絡先:028-653-4359(細野)

▶詳細(PDF)