アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.9(2)

芸術家-藤原 郁三-

1948年「団塊の世代」生まれの藤原郁三氏は、66年に東京藝術大学美術学部日本画科に入学した。大学は学生運動が吹き荒れていた。「社会性を考えざるをえない時代だった。しかし、日本画の世界は純粋に美を求める世界。世の中が吹き荒れていてもアトリエの中は無風状態だった」と、振り返る。「世の中は関係ない。純粋に美を求める世界。その閉鎖性になじめなかった」

70年に卒業。日本画の院展に出品したのは大学を出てから一年だけであった。その頃、メキシコの壁画が紹介されていて、建築を通して社会とダイナミックに関わる作家に強く惹かれたという。

益子の土は日本一陶壁に向いている

「日本画で建築に絵を描く機会はほとんどない。あっても限られた世界とか空間でしかない。フレスコ画を授業で取っていたが、日本にはなじまないと思っていました」

そう想い悩んでいた時、卒業間際になって、日本画の吉田善彦氏から、氏の義弟でもある河合紀氏を紹介されて訪ねた。氏は陶壁では日本のパイオニアの一人である。すると、いきなり「君、壁とは何ぞや」と聞かれた。とまどっていると、氏は「地球の断面だよ。昔人間は洞窟に住んでたんだから、地球の断面が壁のルーツだ。建築は疑似洞窟であり、焼き物で壁を作るのが理にかなっている」と。迫力に圧倒されて「これしかない」と思ってしまった。大阪の教員採用が決定していたにもかかわらず、その足で断りに行ったという。

京都の陶壁作家、河合紀氏の門をたたき修行に励んだ。不自由な材料で絵を描く日本画をやってきたので陶芸の不自由さが苦にならなかった。「河合先生のところに約4年半いて140ヵ所くらい担当しました。最後の仕事が成田空港の陶壁です」

74年に建築家内井昭蔵氏が「栃木県立太平少年自然の家」を設計した。その建築事務所にいた大学の同期生から「栃木県では米陀寛という日本画家が益子で陶壁を作っていたが、米陀氏に頼むと高いので若い作家を」と、声をかけられて制作。独立のきっかけであり、益子町に住むことになった所以である。

陶壁は益子の土が肌に合っていた。「関西の土はねちっこくて例えるなら油絵の具。益子の土は粒子が粗くさっぱりしていて日本画の絵の具。刃物離れがいい。粗いから薄いものは造れないが、陶壁は厚く作れるほうがいいので適している。日本で一番陶壁に向いていると、確信しました」

益子町在住の陶壁作家として約40年。「コンセプトは地球の断面。どこまで行っても大地のロマン。例え薄い壁であっても限りない大地の奥行きとロマンを出したい」。どんなテーマを出されてもこの思いは譲らないと語る。

陶壁の制作

陶壁代表作:1982_栃木県立博物館

土と対話したい

「陶壁は環境アートなので、場とのつながりが大切。それで一つの地域の中で定着させたいと思った。それにはできるだけ数を作りたい。自分が住んでいる世界の風土と密接につながりのある仕事をするには、数をやらないといけない」。栃木県で生まれ育った子ども達は、みんなどこかで藤原氏の作品を見ているのではないかと……。

「それだけやっても美術界じゃ無名です。環境芸術は匿名。意識的に見ていないですから。バックグラウンドアート、空間が主役です。純粋美術との違いですね。価値観が逆です。関わった人の開かれた個性、悪い意味じゃない妥協、環境芸術は場を与えられないとできないし、その場に合せて対応する。引き出しが多くないとできないことです。純粋美術は求心力の世界ですけど、環境芸術はまわりに広がっていく遠心力の世界ですね」

大勢の人と関わって数多くの仕事をしてきた藤原氏は、もともとは対人恐怖だったという。仕事のストレスで41歳と53歳のときに癌を患う。

「もともと日本画家で芸術の社会性を考えるようになって、陶壁の世界に来た。一方で、より開かれた個性、積極的な妥協だと言いながらやっていても、いろんな人とコラボしていかなければいけない。ストレスで病気になってから精神的なバランスを取りたいと、日本画を描いてたときの精神性が頭をもたげたが、今さら日本画家には戻れません」

しかし、目の前に土があった。「土でなければいけない壁画を目指してたのに、いつの間にか土でなくてもいいようなグラフィカルなモノになってくる。土と対話することがなくなってくる。システム的にも体力的にも無理だけど、たえず土と対話して、土の特性を引き出さないと土で壁を創る意味が無い」

若い内はすべての流れを一人でやっていたが、年齢と共に作業が分業化してきた。おのずとデザイン・プロデュースが中心になる。再度土と向き合う為には、日本画を描いていた時のモチーフを絵筆のかわりに土を使って創るのが一番良い。自然に「鬼」を作るようになった。

土と向き合う「鬼」制作

邪鬼を四天王から解放したかった

「鬼が好きだった。卒業制作も風神雷神だった。そして、四天王に踏みつけられている邪鬼に興味を持ち、土の塊から彫り出す。陶壁を作る技術と同じ技術でいわゆる陶彫の世界ですね。陶の彫刻でやろう、と思い立ったのは、ある時「益子参考館」で円空の一刀彫の作品を見て、これは土でできるとひらめいた。「彫刻したレリーフの削りカスを見ていたら、ここが頭でここが手でと、イメージが湧いた。一刀彫で彫っていくと面白いものができた」

計算づくで焼かなければならない陶壁などの普段やってる仕事と、正反対のことをしようと思った。

「土には窯にまかせる世界がある。若いころは窯に任せるのは無責任だと思っていたけど、歳をとったんですか、人知を超えた力を呼び込む世界もあると思いました。火に任せる。今まで自力でやってきてストレスで病気になったから、他力な焼物の世界がやりたくなったんです」

今では「鬼作家」としても、さまざまな社会的関わりのなかでも制作し、作品を発表している。「対極なことをやっていると精神的なバランスが取れる。壁画と繋がらないかというとそうじゃない。最終的にはつながるんです。今まで二千体くらい邪鬼を作ってきました」。栃木県の鬼怒川温泉でもユーモラスな鬼が町中に置かれていて、訪れる人々の目を引いていた。

「もともと邪鬼は踏鬼、四天王の乗り物で台座ですが、いつのまにか鬼にさせられたものです。もとは護法神で最下級の神様で動物だったが、仏敵の象徴として悪役にさせられてしまった。たまたま足元にいたからですね。邪鬼が醜いほど仏が美しい。僕はそれが理不尽で四天王から解放したいと思ったのです。物を支える役目なので礎石がとしても、色々な場面で存在できる。好きで作っていた「鬼」だけど、陶壁同様、社会と関われるんです」

藤原氏のギャラリーには、エコガラスアート「蛍ガラス」のオブジェの合間に、「邪鬼」が鎮座してちょっと睨んでいた。

定印鬼

蹲踞鬼

楯鬼(鬼怒川温泉)

誕生鬼 元鬼

牛鬼

藤原 郁三(ふじわら いくぞう)

1946年
大阪に生まれる。
70年
東京藝術大学美術学部日本画科卒業。
70-74年
KK河合紀陶房に入社、河合氏に師事し陶板レリーフ制作。
71年
日本美術院春季展初入選。
72年
日本美術院秋期展初入選。
75年
独立、益子陶飾にて陶板レリーフ制作。
83年
第4回北関東美術展入選、藤原郁三陶房を設立。
89-91年
新制作・スペースデザイン入選、押し葉陶板が栃木県デザインフェア 住生活部門賞を受賞。
92年
陶壁作品集(東京書院)出版、新制作・スペースデザイン新作家賞受賞。
93年
新制作・スペースデザイン新作家賞受賞。
95年
モザイク打ち込みタイルが栃木県デザインフェア環境部門賞を受賞。
2000年
グラデーション押し葉陶板がとちぎデザイン大賞 優秀賞受賞。
03年
邪鬼―藤原郁三陶彫集(叢文社)出版、日仏現代陶芸交流展(栃木益子 キョウハンシックスギャラリー)。
07年
パリ日本陶芸展(エスパスペルタンポワレギャラリー Paris France)、I.E.A.C.ヨーロッパ陶芸協会大陸に於ける韓国と日本の陶芸2007、ヒューストン大学・ヒューストン建築学校にて講演(Txas America)。
12年
『蛍硝子』が第4回ものづくり日本大賞優秀賞受賞。

現在までに公共、民間建築空間約600ケ所に 陶板レリーフ・モニュメント等を設置。

2000年以降は、主に蛍光管廃ガラスを使ったエコガラスアートを手がける。

栃木県新作家集団会員 新制作協会会員

藤原陶房

〒321-4102 栃木県芳賀郡益子町大字芦沼字中70

TEL:0285(72)6373 FAX:0285(72)6977

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