アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「インドネシアの海」No.2

はじめての東南アジア

1980年代当時、ジャカルタの私達のアパルトマンは、街の中心地の大道りに面したは近代的な高層ビルであった。大きなサロンと寝室・キッチン・トイレ・風呂等全て広く設備も充実している海外の商社マン向きのビルだった。窓からは街が一望できた。スカルノ・デヴィ夫人が住んでいた広大な館も近くにあって窓から見えた。しかし大通りに面していない裏側の窓からはギッチリと低い屋根が重なっている庶民の民家の風景が続いていた。ジャカルタの裏と表の顔だ。

人口も多く活気があり、そして若い人たちが目立つ街であった。夫が働いている昼間は私は一人なので、誰も知らず何処に何があるか分らず、最初はあまり出かけなかった。暑さや湿度も高かったので、クーラーの部屋にいた方が良いと考えていたのだ。それでも毎週末は夫と一緒に買い物に行ったり、レストランで食事をしたり、海辺や街中を歩いては少しずつ地理を覚えていった。雑然とした雰囲気があるにも拘らず、それぞれの場所で出会った人たちが明るく、人生を楽しんでいるように見えた。

私は一人で移動する場合、タクシーかバス、場所によってはベチャ(人力車)を使う必要があるので、インドネシア語で場所の名前を言えば連れて行ってくれるが、最初の慣れない頃は、なんとも得体の知れない不気味な場所もあったりするので、危険な目に合わないようにとかなり用心して行動していた。というのは夫の友人が被害に遭ったのだが、空港からアパルトマンに来る間、家族の荷物や生活必需品等が積んであった小型トラックがそっくり盗まれたという。また現地の案内人に車の窓は絶対に開けないようにと警告された。赤信号で止まっていたときに、物乞いの老婆が近付いてきたので、窓を少し開けて何をあげようとしたら、すぐ出てきたチンピラにピストルを突きつけられたなどの話も聞いた。私たちの建物の入り口には制服の警備員数人が24時間詰めており、まるでホテルのサロンのようなロビーがある私たちのアパルトマンにはもちろん部外者は立ち入り禁止である。

タイトル表紙の写真は海辺の水牛で、私たちは約30年前にジャカルタにいた時の様子だが、水牛は農耕、運搬に使用されていた。人々は日焼けしたような浅黒い皮膚で黒髪、簡単な夏服を着ているが、インドネシアの美しい民族衣装の人もいた。中国人の華僑も何パーセントかいる。

ジャカルタはジャワ島にあるインドネシアの首都でジャワ海に面している。現在、ジャワ島南側はインド洋で面積1919440k㎡で世界14位。赤道またがる1万3466の島々があり、人口は2億3000万人を超え世界第4位。世界最大のイスラム人口国。3世紀にわたるオランダより1954年に独立。多民族国家であり種族(300)・言語(583)・宗教は多様性に満ちている。基本的には農業国であり、カカオ、キャッサバ、ココナッツ、米、コーヒー豆など。鉱業資源にも恵まれ、金、スズ、石油、天然ガス、銅、ニッケルの採掘量が多い。(ウィキペディア参照)

私たちが在住していたアパルトマン

窓から下町を見る

ジャワ海のほとりで

ジャカルタの市場で

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。