先月号で書いたが、私は強盗に入られた後ショックで体の具合が悪くなり、会社の車で運転手と一緒にナイジェリア第二の都市カノの病院に行った。「あれが病院」と分かるほどナイジェリアでは異質で、白い3階建くらいの四角い建物が赤土の上に建っていた。庭を通り玄関口にたどり着くまで、沢山の人がその赤土の上にムシロを敷いて座っていたり寝ていたりしていた。
「この人たちは患者?」。お湯を沸かす為のアルミのヤカンと薪も傍らにおいてあった。いつものように10個くらいの落花生の塊を売っていたり、小瓶(コ-ラや他の瓶)なども売っていた。建物の中に入り、いくつもの廊下を右折左折しながら、直接医者のいる部屋に入り、現地の医者に診察してもらった。私はなんとか英語と身振り手振りで説明したが、医者も良く分からないようだった。ショックから来る体調不良など、どこの国にいようと時間が解決するしかない。私がボーッとしていたせいかもしれないが、聴診器のほかは何も見当たらなかった。医者は薬の処方箋を書いてくれて別の部屋で薬をもらうようにと言った。
別の部屋の棚には薬らしきものは見当たらない。ただ脱脂綿がビニール袋に入っていた。机の上には唯一ひと抱えもある透明のガラス瓶に「赤チン」が半分ほど入っているだけであった。ねじった古新聞でビンの口をフタしてあり、その周囲にはハエがぶんぶん飛んでいた。看護婦さんが「小瓶を持ってきましたか?」と私に言った。「いいえ」と答えると、「外で買ってきてください」と。えっ、あの汚い古い小瓶は薬を入れる為に売っていた?
何ももらわずに帰るつもりで病院内のトイレに寄った。ドアを開けたら、床上10cmくらいお小水がたまっていた。大にいたっては便器に山盛り……。現地の人たちがしているように外で用を足すのがいかに清潔ですがすがしいことかがよくわかった。コレも私には悪夢のトラウマになった。
病院の庭にいる患者たちは遠くからも来ており、煮炊きしながら順番を待っているのだ。しかしここまで運んでもらった人たちはまだ良いほうで、ほとんどの病人がいつか村で見たように薄汚れたダンボールに寝かされて死を待っているという状態だ。いわゆる日本語でいう「箱物(この場合病院)」はどこかからの援助でとりあえず建てるが、維持していくにも中身は何にもないのが現実だった。
この頃、日本は東京オリンピック景気から高度経済成長を経て第1次石油ショックから抜け出し、やがて1986年頃から始まったバブル経済へと向かった時代だったという。この時代の日本を知らない私は1980年代のフランスとアフリカの狭間でアーティストとしての歩みを模索していた。
ナイジェリアの昼
ナイジェリアの夕
「歴史あるカノの町」1980年頃のナイジェリアの絵ハガキ
(つづく)