渡辺崋山は、最晩年、蟄居の身で再び罪科の危険が迫ってくるとの危機意識の中、重要文書等を、あるは「火中書」とし、あるは鈴木完義等に委ねたりと、急ぎ処分隠滅したが、その中に『一掃百態』や『つヾれの錦』(真贋の面で疑問視する研究者あり)等浮世絵系の風俗画もあった(人見少華氏論考)。
ちなみに、『一掃百態』の小華の跋文には「此図先人の遺書中に在り、箇底に蔵すること年あり」とある。自刃決行後の事後処理は内密裏に行われたが、厳重な捜査を避けたのか、検死に赴いた幕府与力中島・磯貝の報告書にはそれらの記録はない。「餓死すとも二君に仕ふべからず」の倅宛遺書や椿椿山宛遺書とともに、しばらく筐の底部に紛れていて、発見されたのはかなり後になってからという。
『一掃百態』は、崋山が二十六歳の頃、僅か三日二夜で描き上げたという早描きの当世風俗スケッチ集。
まず前段として古画から写し取ったという鎌倉期から江戸中期(元禄~元文、寛延~明和)までの典型的な風俗イメージ十頁を示し、そして後段、堰を切ったように自由闊達なストロークで同時代当世風俗を四十一頁に亙って活写する。初午灯籠絵の内職で慣らしてか下書きなしの卓抜なクロッキー・デッサンである。巧みな線画の上に淡彩が施され見栄えもよく、三通りの序文や後記のテキストも検討されていることもあり、時期を見て出版をと考えていたのであろう。狩野派が風俗画を描くことをやめ民間の俗工に委ねられて以来、世俗の風俗画を玩弄物と低くみるきらいが強く、崋山はこれに異議を唱えその効用をテキスト中に説いている。
当時人気のあった学画用版本には『北斎漫画』があるが、守隆雄氏は、「崋山の絵画観ー『一掃百態』を中心としてー」(栃木県立美術館渡辺崋山展図録)の中で、先行する時代のはやりものとして山口素絢の『倭人物画譜』や『葵氏艶譜』、『禍福任筆』を上げており、とりわけ「進書目録」中にも見いだせる文化五年刊の『禍福任筆』に影響を受けたところ大きいと主張されている。『一掃百態』附記に「林氏世ヲ魁ケテ之ヲ書キ、善ヲ究ム・・・林君ノ如ク余実ニ不能ハズ・・」とある林氏の画とはそれに類するものであったのだろう。
なお、当時「鳥羽絵」の流行があり、崋山は「鳥羽絵」はもちろんそのもととなった高山寺『鳥獣戯画』について学ぶこともがあった。『鳥獣戯画』は鳥羽僧正の絵として評判が高く、浮田一蕙、高隆古など復古大和絵派の画家たちもこれに倣って同様のの風流画を描いている。
なお、『一掃百態』に押されている款印は、「江戸之人」であるが、この印章は、天保二年、三十九歳の時に、藩史調査で北関東を巡ったその折に携帯していたもので、この道中で描いた作品には同印が押されたものが多い(印顆そのものは旅の途中で紛失したという)。
(文星芸術大学 上野 憲示)
「一掃百態」その1
「一掃百態」その2
「禍福任筆」(部分)
「葵氏艶譜」