アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.116

2人の盲人 ~患者さんがスーパーバイザー~

へき地のA町立病院に勤務していた昭和62年のある日、「70歳の男性が肺炎で入院しました。少し変わり者です。主治医になって下さい」と院長に言われた。病室に顔を出した私は院長が肝心な1点を省いていたことに気付く。患者は不愛想なだけでなく、全盲だったのだ。

この病院の内科医だった私は秋田市内のS病院でも週1回、精神科外来を担当していた。患者の中に、糖尿病性網膜症の急激な悪化により発症後わずか3年で視力をほぼ失い、過呼吸などパニックを頻繁に起こす30代女性がいた。発作のたびに救急車や夫の車で来院し、待合室で狂乱状態になることもある。大量服薬やリストカットも稀ではなく、糖尿病科でも眼科でも担当医らはお手上げだった。

一方、肺炎は改善傾向にあったA病院の老人はふて腐れたままである。看護婦たちも「あの人は昔から頑固で怒りっぽく、近所付き合いもない。時々夜中に大声でわめく。役場や民生委員が面倒をみている」という。ある当直の夜、私は思い切って失明と一人暮らしの経緯を病室で尋ねてみた。S病院の女性患者に何か参考にならないかと考えたからである。老人は重い口を開いた。「農作業中に泥が右目に入った。痛みを我慢していたら左眼も痛くなり、仕方なく眼科へ行ったら両側眼球炎と言われ、すぐに両方見えなくなった」という。50歳だった。やけを起こし酒浸りの生活が始まる。やがて娘は都会に就職が決まり、妻も家を出て行った。近所や親族に愛想を尽かされ、死のうと山奥で断食もしたが死ねなかった。女房子供に見捨てられたのは自分のせいだから恨みはない。「こんなつまらん話を聞いてどうする?」と病室の外に見えない目をやる。

翌週、S病院ではまた騒動が持ち上がっていた。例の女性が自殺未遂をしたというのである。入院して主治医を替えてはどうかと彼女に提案した。「精神科に入院したら誰が眼を診てくれるの? 内科の先生? 眼科の先生? もう自殺しない。入院はいや」と手を合わせ、夫も「1年前に比べたら、これでも良くなってきた方です。ここでまた主治医が替わるのは私も…」と肩を落とす。「私は常勤医ではないので不在の時に何かあっても対応できない。困った時、私が来るまで待てますか」と彼女に念を押すと小さく頷いた。疑問を抱えながら変則主治医を続けることにした。

A病院に戻り、老人にありのまま彼女の話をしてみた。先生、苦労しているねと老人は天井を仰ぎ、「その人は目が見えなくなって何年?」という。約2年ですと答えると彼は、「最後のあがきだ。あと1年かな」といい、「俺も失明して2、3年は苦労した。変わってきたのは4年目。その頃、盲に慣れるまで男は5年、男より柔軟な女は3年かかると同病の人に聞いてね。確かに5年過ぎたらトンネルを抜けた気分だった」

翌週のS病院。この1週間でヒステリーを起こして皿を割ったのは1回だけ、半年前までは週5、6回で、うちの食器は新品揃いと夫が笑う。皿を投げた時の気分は?「食器棚の角に思いきり頭をぶっつけて、痛いやら口惜しいやら。それでつい…」という。「腹も立つなあ。元々そそっかしいところがあるって前に自分で言っていた。目が不自由なおっちょこちょいは大変だ」というと彼女は、「気の短い猫舌の人は熱いお茶を出されると苛々するって」と久々に冗談を口にした。

診察後、「女3年、男5年」という老人の話を夫にした。夫はハタと手を打ち、「確かに妻は1年前と違います。今回の自殺未遂のあと少し穏やかになりました。心強いお話です」と頭を下げた。「私もじいさんのアドバイスでだいぶ気が楽になりました」と言うと夫は、「先生の顔にそう書いてありますよ」と笑顔を見せた。

A病院で老人にこの話をした。「よかったよ。その女の人、旦那さんが明るくなったのならまず大丈夫」。程なく老人は退院した。病院玄関で見送った婦長が、「驚いたわ。あの偏屈じいさん、ありがとうって看護婦たちに声をかけたのよ。何度も入院しているけど、珍しい」という。看護主任は、「あの若い医者をよろしくと言っていました。患者の俺が医者を心配したのは初めてだって」

女性患者は3年目に入ると憑き物が取れたように安定し、治療は終了した。私はその後A病院から別の病院へ、今度は精神科医として赴任した。約1年後の平成元年、彼女が脳出血で救急搬送され、意識不明の重体と夫から連絡があった。

寒風山(男鹿半島)から秋田市方面を望む


鵜ノ崎海岸(男鹿半島)

男鹿半島の山歩き(R3年7月下旬)

21-07-26 レター61

写真撮影:大日向かなえ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。