へき地のA町立病院に勤務していた昭和62年のある日、「70歳の男性が肺炎で入院しました。少し変わり者です。主治医になって下さい」と院長に言われた。病室に顔を出した私は院長が肝心な1点を省いていたことに気付く。患者は不愛想なだけでなく、全盲だったのだ。
この病院の内科医だった私は秋田市内のS病院でも週1回、精神科外来を担当していた。患者の中に、糖尿病性網膜症の急激な悪化により発症後わずか3年で視力をほぼ失い、過呼吸などパニックを頻繁に起こす30代女性がいた。発作のたびに救急車や夫の車で来院し、待合室で狂乱状態になることもある。大量服薬やリストカットも稀ではなく、糖尿病科でも眼科でも担当医らはお手上げだった。
一方、肺炎は改善傾向にあったA病院の老人はふて腐れたままである。看護婦たちも「あの人は昔から頑固で怒りっぽく、近所付き合いもない。時々夜中に大声でわめく。役場や民生委員が面倒をみている」という。ある当直の夜、私は思い切って失明と一人暮らしの経緯を病室で尋ねてみた。S病院の女性患者に何か参考にならないかと考えたからである。老人は重い口を開いた。「農作業中に泥が右目に入った。痛みを我慢していたら左眼も痛くなり、仕方なく眼科へ行ったら両側眼球炎と言われ、すぐに両方見えなくなった」という。50歳だった。やけを起こし酒浸りの生活が始まる。やがて娘は都会に就職が決まり、妻も家を出て行った。近所や親族に愛想を尽かされ、死のうと山奥で断食もしたが死ねなかった。女房子供に見捨てられたのは自分のせいだから恨みはない。「こんなつまらん話を聞いてどうする?」と病室の外に見えない目をやる。
翌週、S病院ではまた騒動が持ち上がっていた。例の女性が自殺未遂をしたというのである。入院して主治医を替えてはどうかと彼女に提案した。「精神科に入院したら誰が眼を診てくれるの? 内科の先生? 眼科の先生? もう自殺しない。入院はいや」と手を合わせ、夫も「1年前に比べたら、これでも良くなってきた方です。ここでまた主治医が替わるのは私も…」と肩を落とす。「私は常勤医ではないので不在の時に何かあっても対応できない。困った時、私が来るまで待てますか」と彼女に念を押すと小さく頷いた。疑問を抱えながら変則主治医を続けることにした。
A病院に戻り、老人にありのまま彼女の話をしてみた。先生、苦労しているねと老人は天井を仰ぎ、「その人は目が見えなくなって何年?」という。約2年ですと答えると彼は、「最後のあがきだ。あと1年かな」といい、「俺も失明して2、3年は苦労した。変わってきたのは4年目。その頃、盲に慣れるまで男は5年、男より柔軟な女は3年かかると同病の人に聞いてね。確かに5年過ぎたらトンネルを抜けた気分だった」
翌週のS病院。この1週間でヒステリーを起こして皿を割ったのは1回だけ、半年前までは週5、6回で、うちの食器は新品揃いと夫が笑う。皿を投げた時の気分は?「食器棚の角に思いきり頭をぶっつけて、痛いやら口惜しいやら。それでつい…」という。「腹も立つなあ。元々そそっかしいところがあるって前に自分で言っていた。目が不自由なおっちょこちょいは大変だ」というと彼女は、「気の短い猫舌の人は熱いお茶を出されると苛々するって」と久々に冗談を口にした。
診察後、「女3年、男5年」という老人の話を夫にした。夫はハタと手を打ち、「確かに妻は1年前と違います。今回の自殺未遂のあと少し穏やかになりました。心強いお話です」と頭を下げた。「私もじいさんのアドバイスでだいぶ気が楽になりました」と言うと夫は、「先生の顔にそう書いてありますよ」と笑顔を見せた。
A病院で老人にこの話をした。「よかったよ。その女の人、旦那さんが明るくなったのならまず大丈夫」。程なく老人は退院した。病院玄関で見送った婦長が、「驚いたわ。あの偏屈じいさん、ありがとうって看護婦たちに声をかけたのよ。何度も入院しているけど、珍しい」という。看護主任は、「あの若い医者をよろしくと言っていました。患者の俺が医者を心配したのは初めてだって」
女性患者は3年目に入ると憑き物が取れたように安定し、治療は終了した。私はその後A病院から別の病院へ、今度は精神科医として赴任した。約1年後の平成元年、彼女が脳出血で救急搬送され、意識不明の重体と夫から連絡があった。
寒風山(男鹿半島)から秋田市方面を望む
鵜ノ崎海岸(男鹿半島)
男鹿半島の山歩き(R3年7月下旬)
21-07-26 レター61
写真撮影:大日向かなえ