アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.131

クマとお花畑 ~繁華街に熊が出た~

11月30日午前6時過ぎ、秋田市土崎のスーパー「いとく土崎みなと店」に熊が侵入し、鉢合わせした従業員が受傷した。店の隣は堂々たる4階建て警察署である。この店へ時々出かける家人は「お隣さんがポリスだからすぐ解決ね」といい私もそう思った。そこへ茨城の友人からメール。「キリタンポが届きました。発送元は今テレビに出ている店ですか?」

テレビに映る猟友会会員らは発砲できない猟銃を肩にかけたハンター姿、秋田市職員は作業着、お隣さんは顔面保護ヘルメットに頑丈そうな防護服で盾を構えている。捕獲作戦の主役は市らしいが、熊が飛び出してきたら皆さんどうする気か。夕方になっても動きはなく、店にこもる熊と、戦う気のない面々は最初から膠着状態である。市は翌日ドローンを飛ばして店内を探った。熊はバックヤードにいる―。箱わなを仕掛けた。

半月前から土崎に熊出没の噂はあった。ところが「実際に姿を見た人はない」「こんな海辺の繁華街に出る訳ない」と馴染みの寿司屋は夜な夜な賑わい、お隣さんも警戒態勢薄く、この事態に至って慌て周辺道路に黄色のバリケードテープをめぐらした。2日目午後になっても進捗なし。食糧満杯のスーパーで熊さんは籠城を楽しんでいるのかなと外野席は呑気である。

55時間後の12月2日朝、箱ワナに熊が入った。体長1m、70kgの雌。「いくら獰猛でも、その体格なら機動隊の猛者4、5名でエイ、ヤーとやれそうなものだが」と近所の剣道3段はいうが、知人の警官は「野次馬を近づけないよう熊がいる建物の前に立つ任務は正直、怖い」といい、頷ける。

茨城から「都会には熊がかわいそうというお花畑な人が多い」とメール。お花畑といえば、北海道で2018年8月、市の要請と警官立ち会いでヒグマに発砲したハンターの猟銃所持許可証を取り消した道公安委員会と裁判所の諸君である。撃った弾が周囲に害を与える可能性が否定できなかったと良識が花開き、猟友会を怒らせた。こんな事例から土崎でも関係者は腰が引けたらしい。

だが、あの露プーチンの猫と秋田犬を交換した佐竹知事は違う。「対応を説明しても分からない悪質なクレームにトップが毅然と対応をすることで職員もやりやすくなる」「私なら『お前に熊を送るから住所を送れ』という」と述べ喝采を浴びた。

マタギで有名な阿仁(北秋田市)のリンゴ農家は5、6年前から熊の出没に悩まされてきた。箱わなで昨年12頭捕獲した知人は、今年はゼロ、他の多発地区でも今年はいないようだという。だが発見し通報しても事情聴取はしつこく、「用心して下さい」と何もせずに立ち去る桜マッポは安全確保が主務と知った住民はアテにしていない。

秋田の独立峰「大平山」の馬場目岳を下りた熊は、湖東平野から橋を渡って広大な干拓地大潟村を横切り、男鹿半島の奥座敷、ナマハゲを祀る真山神社まで侵攻した。秋田市内も例外ではなく、挨拶の「つつがなく」が「クマがなく」になった秋田に安全域はない。熊に舐められたナマハゲやマッポをアテにせず法を熊仕様にしないと…。8日に再開した「いとく」で買った「高清水」紙パック大吟醸を飲みながら。〈2024.12.25〉

NHKのデータ放送から

八郎湖(八郎潟干拓残存湖・12月の初雪)

八郎湖にそそぐ馬踏川(潟上市大久保)

友川カズキ・ライブのテレビ画像(11月16日・秋田市キャットウォーク)

秋田放送のインタビュー

ライブ打ち上げ(友川さんは翌週「新宿ロフト」で、12月下旬は上海と北京で、1月は台北でライブと絵画展)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。