秋田大学精神科で研修中のある日、外来の婦長が「教授が最近診察の合間にやたら水を飲むのよ」と首をかしげていた。高血糖かもしれませんと教授に検査を勧めたところ「冗談やない。わしの血縁に糖尿病はおらん」とにべもない。だが昼休みに渋々採血に応じ結果は血糖値300台の立派な糖尿病。当時私は消化器内科所属で、糖尿病専門の講師を受診するよう勧めた。ところが教授は「わしはあの人が苦手じゃ。君が主治医になってくれ」とおっしゃる。ここは大学病院、大先輩も居並ぶ。大阪大学時代から睡眠研究で世界的に著名な教授の主治医など研修医が出る幕ではない。
教授の主治医とは格も大違いだが、かつて森岡先生が昭和天皇執刀医を要請された時も青天の霹靂だった。著書『手術室からセ・ラ・ヴィ』にその経緯が詳述されている。同書や私が伺った話では、先生はまず昔の王たちの手術と医師らの運命を調べてみた。同書によれば―。
およそ2千年前の「目には目を」で有名なハムラビ法典には反坐の刑というものがあり、治療に失敗した医師はその手を切られ、14世紀のボヘミアでは王の眼の手術に失敗した医師が川に投げ込まれた。17世紀フランスではルイ14世の痔瘻の手術に成功した医師は大層な報酬を得、教会で民衆が「王を救い給え」と祈る姿に感銘を受けた英国人により英国歌「ゴッド・セイブ・ザ・キング」ができたという。18世紀に英国王ジョージ4世の頭部嚢胞の手術を頼まれたクーパーは失敗した時の運命を思ってめまいがし、成功した後「絶対に引き受けたくなかった」と友人へ手紙を書いた。王の手術は命がけだったのである。
幕末の江戸、名医で評判だった伊東玄朴は往診途中で幕府の御用人に駕籠ごと徳川13代将軍家定の枕元へつれて行かれ御拝診に及んだ。「あと2日の命」と診断しその通りとなって信頼され、幕府の侍医職に就き、お玉が池の種痘所を幕府直営の西洋医学所に替え東京大学医学部の礎とした。森岡先生も天皇執刀医を突然依頼され、玄朴先生の困惑を想起したそうである。
昭和天皇は当時86歳。(不治の)病ならば天寿を全うして頂くのが自然であろうと体面を優先する侍従らと、治療優先が考えの侍医らとはやや見解が異なったらしい。やがて東大第1外科同門で前侍医長の星川光正先生の推薦で森岡先生に白羽の矢が立つ。現上皇の皇太子侍医時代の星川先生とお会いしたことがあるが、風貌も立ち居振る舞いもお公家然としていた。かくて執刀医決定となりマスコミが動く。東大病院長だった森岡先生の身辺も騒がしくなる。
左系は「天皇より一般人をもっと診ろ」と難じ、過去に天皇の手術例がなかったことから右系も「玉体にメスを入れるとは不遜である」と騒ぐ。渋谷の森岡家周辺は右翼の街宣車や警護のパトカーで甚だ賑わったらしい。
宮内庁病院で手術が行われた昭和62(1987)年9月22日早朝、先生は真向かいの平田神社に拝礼した。後年私に著書を下さった米田勝安氏ら役員総代一同も手術成功を祈願した。そして翌日、記者らが撮影したこの光景が新聞に掲載され状況は一変。秋田出身の医師で国学者の平田篤胤は王政復古の思想的支柱だった上、陛下の手術に「一般の患者さんと同じです」と先生がコメントしたため右も左も黙ってしまったのである。(2026/3/14)
天皇手術の翌日の新聞
他の新聞(平田神社の資料から)
手術室からセ・ラ・ヴィ(講談社1994年)

