アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.17

芸術の効用 ~病と写真~

女子高時代からの親友がガンと分かってショックを受けた、自分に何ができるかと考えた末、毎日メールで励みになる言葉を送ろうと思い付き、本を乱読している、そうしたら私の方が安定してきたような気がする…。こんな患者さんがいた。

友人がガンになり、春先から庭の花々、ガーデニングの模様を撮影し、週1回、病床に送り続けたご婦人がいる。撮影のために、友人のために、その人は秋風が冷たくなるころまで花の手入れに余念がなかった。

冒頭の女性にこの話をして、花の写真でなくとも、療養の励みになりそうな絵葉書を求め、週1回でも、メールの合間に、あなたの言葉を1、2行書いて投函したらどうかと提案してみた。

ターミナルケア関連のある講演会。演者はスライド写真で病棟を紹介した。落ち着いた雰囲気のホールを飾る派手な抽象画…。ちょっと違和感を覚え、終了後に質問してみた。「作品は末期ガンの患者さんたちに好評ですか?」「残念ながら不評です。実は、理事長の好みで…」

健康な人はピカソもダリも楽しめる。だが弱っている人が好むのは、私の経験からすると少し違う。臨死体験をまとめた立花隆氏の著書には三途の川の一歩手前の光景らしいお花畑がよく登場する。そのお花畑のような作品が特徴の写真家が秋田県角館在住の千葉克介氏64歳だ。3年前に脳梗塞で倒れ、あわやの所で引き返して来た。北東北中心の風景写真は、3年前まで自治医大地下にあったアートインホスピタルで輝いていた。衰弱したターミナルの患者さんがじっと見つめていた光景が忘れられない。

「千葉さんの写真集、お友達に1冊どうぞ。よいお見舞いになりますよ」件の患者に勧め、「来年、パリで彼の個展をやろうと企む一味がいてね」「先生が会長さん?」「え、何で? 副かも…」「私、友達にこれを見せて、来年はパリに行こうと誘います!」励みになればいいね。花の都、芸術の都、パリ。ひと踏ん張りするか…。

(千葉克介HPhttp://chiba-katsusuke.com/

千葉克介

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。