アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.23

秋田ビジョン ~秋田おばこの謎~

観光客を呼び込もと秋田県はキャッチコピー「あきたびじょん」を掲げ、県内外に様々なポスターを配布している。中でも評判なのが写真家・木村伊兵衛の作品「秋田おばこ」をアレンジしたポスター。品川駅など山手線駅構内に張り付け、超拡大したポスターで銀座サッポロビルを覆ってしまった。

木村作品のモデルは、全国花火競技大会で有名な大曲の女性である。1952年に彼女を最初に撮影した大野源二郎氏88歳の個展が11月に大曲で開かれた。目元がきりりと引き締まった、いかにも勝気そうな美女だ。当時のカメラ雑誌に載ったこの写真に魅了された木村は、翌53年に大曲を訪れ彼女を撮影した。原作をアレンジしたデザイナーのセンスも光る。

秋田美人と言えば万葉の歌人小野小町。秋田では美人が多いとされる県南の仙北、雄勝地方を小町の古里とするのが通説だ。幸運にも私はこの地域の数病院に長らく勤務した。確かに顔かたちが美しい色白の女性が多く、言葉遣いも穏やかで、「日本海側は人心が荒っぽくて馴染まない」と秋田市内の病院から生まれ故郷大曲の病院に移った友人もいるくらいである。

NHKが昭和56年ごろ、秋田美人の秘密を探るといった内容の番組を放送した。一緒に働いていた田沢湖病院の看護婦2名が登場し、彼女らの肌は他県の女性に比べ非常にきめ細かいという結果だった。自治医大の学生時代、茨城の同級生が、関ヶ原の戦いに敗れた佐竹氏が茨城から秋田へ転封となった際、美人をみな連れて行った、茨城に美人が少ないのはそのせいだと怒っていたが、どうも八つ当たりらしい。

関ヶ原から400年。秋田の若者はここ100年ほど都会へ流出し続けている。それでも秋田に美人が多いのは、県外からのDNA流入も少なく、混血も進まず、「美人遺伝子」が温存された、いわばガラパゴス化現象かもしれない。いずれにせよ美人の畑には種が必要だ。男おばこたちよ、胸を張って秋田ビジンと県活性化ビジョンに寄与しようではないか!

秋田びじょん 木村伊兵衛原作

大野氏の秋田おばこ

大曲花火-花火師たちの大競技会

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。