アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.29

齢のせいには… ~快走する69!~

三浦雄一郎氏、80歳にしてエベレスト登頂3度目の成功。「迷惑千万。都合の悪いことが年のせいに出来なくなった」とぼやく75歳男性は、酒肴は自分で買いに行くのに町内清掃には高齢を理由に出てこない。女性患者86歳は、「だって三浦さん、若いですもの」。山岳医の大城和恵氏は、「…生きて帰る。その思いが、息が詰まりそうになるほど素晴らしかった」と、やはり尋常ではない。

週1、2回、秋田山王テニス倶楽部に通うのが私の不養生対策である。昔、倶楽部に名物対戦があった。夫婦ではない82歳女性と81歳男性が、ともに若いペアと組むダブルス。ゲーム中、サイドを抜かれると爺さんは、「じゃじゃ馬!」と彼女を罵り、逆に彼のドロップショットが決まると彼女は、「いじわるジイ!」とまぜ返す。爺さんは心臓バイパス手術を、婆さんは胃がん手術を受けた後であったが、この対戦は私たちに勇気をあたえた。

5月連休に横浜のシニアチーム22名が秋田空港に降り立った。出迎えたわがテニス倶楽部一同は黒々と日焼けした彼らの顔にまず圧倒された。早大庭球部主将だった倶楽部社長は、「横浜の平均年齢69歳は私と同じ」というが、とてもそうは見えない。試合が始まって嫌な予感は的中。社長や若手らは奮闘したが他は大苦戦を強いられた。75、70歳の横浜ペアに私は弾丸サーブを放ったものの糠に釘、ほとんどポイントを奪えぬままゲームセット。

酒なら、と臨んだ懇親会。旨い秋田の酒に横浜勢は「秋田は練習不足だね」と舌も滑らか。60歳でテニスを始めた69歳の方は、「私にはまだ伸びしろがある」と胸を張り、検診で骨密度が30歳代と言われ鼻高々のご婦人もいた。

とは申せ、わが倶楽部シニア組と同様、彼らの多くも心臓病やがんなどを患い、三浦氏と変わるところはない。だがみな齢や病をあざ笑うかのように呑み歌い、「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ(細川ガラシャ)」とはちょっと違う、胸騒ぎの庭球69たちであった。

ジオンと私

田沢湖乳頭温泉郷の秘湯「鶴の湯」にて

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。