アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.56

お医者さんはいませんか! ~精神科医のニアミス~

今年もまた潟上市の自宅から車で10分の八郎潟町「一日市(ひといち)盆踊り」に3日間出かけた。前夜祭では浅草カーニバルのダンサーたちと商店街パレードで1時間アゴゴ、夜はステージでクイーカを演奏した。バテリアも6年目。さっぱり上達しないのはご愛敬だが、週1回2ヶ月の稽古を経た晴れの舞台である。私たちは気をよくして翌日から本番に臨んだ。

2日目の夜。商工会の出店で焼き鳥とビールをやっていたら、「飛行機の中で急病人が出て、お医者さんはいませんかと放送があったら、先生はどうする?」という者があった。こういう時まともに答えるのは得策ではない。「君なら?」と逆質問したら敵もさる者、「俺が医者なら名乗り出る」ときた。その手は桑名の焼き蛤。「医者だって専門がある。腹が痛いと言っているとか、意識がないとか、症状も言ってくれないと、ちょっとね。最近は訴訟問題もあるし」

すっかり酔いの回った私たちは午後9時ころ踊りの輪に入った。10時に終わり、さあ飲み直そうと語り合っていたその時、「お医者さんはいませんか!」という叫び声が上がった。反射的に声と反対側へわが身が向いたその刹那、何者かが私の右腕をつかまえ、ぐいぐい引っ張っていく。老人が車道に倒れていた。脈をとると触れない。呼吸も弱く、呼び掛けても反応がない。老人を抱き起そうとする野次馬がいた。制止し、反対に回って脚を持ち上げるよう指示した。下肢の血液を上半身に集めるためである。やがて脈が触れ始め、老人は唸り声を発した。結局、救急車が着くまで15分間その場で待機した。

気が付くと飲み仲間は誰もいない。出店に戻ると「先生、お疲れ様」「飛行機の話をしていてよかったね」とみな呑気なものである。こうして明日は仕事なのにまた飲んでしまう。

よせばいいのに翌日も仕事が終わってから出かけた。また連中が出店で飲んでいて、「きのうのご活躍、町で評判だよ」などとおだてる。そこへ変人の歯科医が現れた。何やら肩からぶら下げている。「夕べは先生1人で大変だったから、今日はこれを持ってきた」とテーブルに乗せたのは、何と、AED(除細動器)。オレは精神科だ!

アゴゴ

クイーカ

バテリアとダンサー

一日市盆踊り

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。