アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.96

スキーあれこれ ~田沢湖スキー場へどうぞ~

1月半ばの3連休、初日と3日目は田沢湖スキー場だった。雲ひとつない青空に真っ白の秋田駒ケ岳がくっきり映え、ドキっとするほど美しい。最近、場内放送に韓国語と中国語が加わり、政治とマスコミではあまり仲の良くない国どうしだが、国民レベルだと話が違うようだ。

学生時代、高校同級生らと田沢湖スキー場に連泊したことがある。うち1人は東医体(東日本医科学生総合体育大会)のスキー選手で、高校時代から冬場は顔が煙突の煤みたいに日焼けしていた。競技スキー一筋の彼は我々のような遊びスキーを知らない。目的もなくゲレンデを滑って何が面白いのかということもあった。こういう手合いは厄介である。彼は圧雪していない急斜面の難コースを蝶が舞うようにすいすい滑って、遥か下から「お~い、もたもたするな。風邪ひくぞ!」と怒鳴る。もともと短気で落ち着きのない多動男だったが、スキー場でも同じだった。後年、こうした性格傾向が原因と思われるうつ病になって、その時ばかりは小生の軍門に下った。

大学の某後輩も東医体のスキー選手だった。大会では本番前の2日間、選手にコースを徹底的に記憶させる。猛スピードのためカーブを覚えておかないと危険だからだ。夜も頭の中でコースをなぞりながら眠りに就く。そして本番。彼はスタートして3秒後に記憶を失い、気が付いたら病院のベッドだった。またある時は一緒に滑っていて私の視界から忽然と消えた。ゲレンデのコース外に拡がる新雪に向かったのだが、あいにく雪の下に小川が隠れていて、ニアミスどころかまっしぐらにそこへ飛び込んでしまったのである。彼は私の滑りを「先輩は今のままがいい。スキーはスピードが一番です」と評価してくれた。同じ多動児として私は今もその言葉を大切にしている。

田沢湖スキー場は私たち多動組以外の普通のスキーヤーやボーダーにとって冬場の故郷である。今年もモーグルW杯など種々の大会が予定されており、県外の皆さまにもパウダースノーの感触と共に楽しんで頂きたい。どうぞお運びを!

田沢湖スキー場~遠方に田沢湖

リフトの遠方に白く光るのが秋田駒ケ岳

自撮りに挑戦~頂上付近の「銀嶺コース」を背景に

寒風山から見た初日の出(右手は日本海)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。