焼け出されて栃木県に
「再来年が60周年、今年(2012年)で『きらく』開店58年になります」と、にこやかに語る株式会社「きらく」の坂本富治社長。食堂一筋に60年、半世紀以上を栃木県宇都宮市で暖簾を守ってきた。生まれは江戸っ子、東京の下町で少年期を過ごした。
1939年9月、ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパ戦争が勃発、1941年(昭和16年)12月に日本と米英との開戦によって全世界に拡大して第2次世界大戦となった。富治さんは開成中学校(東京)の学生であった。学徒動員で労働に従事する青春の日々であったが、戦争が激しくなるにつれて母親と兄弟(8人)たちは栃木県に疎開した。父親と長男富治さんが東京に残り家を守っていたが、空襲で焼け出されて家族の元へ疎開した。「布団を一組担いで、車両の連結する所にしがみついてやっと疎開してきました」
東京の実家は自転車のサドルカバーやハンドルカバーの製造工場だった。戦争がはじまると材料が輸入できなくなり、工場はやむを得ず閉鎖した。
「階下の半分はカバン工場に貸して、二階と下の一部はアパートにしていましたね。空襲でそれもきれいに焼けてしまって、石橋町(現下野市)の隣にあった明治村(現宇都宮市上三川町)に疎開して、石橋中学校に転校しました」
戦後、父親は自転車の部品の問屋をはじめた。父親といっしょに、自転車で重たい荷物を後ろに積んで県内に全域に運んだ。石橋中学でバスケットの国体選手として活躍するほどの屈強な身体が商売に役立っていた。その後、宇都宮市に転居し、父親とともに自転車部品の問屋商売を広げていった。
「でも、田舎の自転車屋さんは農家に金が入らないと支払ってもらえないんですね。だから現金商売に切り替えたいと親父に言ったんです。それから新宿歌舞伎町(東京)に行って修業しました。初めは川魚と焼き鳥の店、3~4ヶ月いたかな。何か、店で有名になるような食べ物はないかなと思っていたら、調布の深大寺蕎麦の店を紹介されて修行に行きました。日本蕎麦のだし汁が全然違うんですね。一味違うのがプロの味だというのがわかりました。一生懸命勉強しましたよ」
「喜楽」のオープン
「蕎麦屋で修行して7カ月くらいたったとき、母親が、お汁粉やあんみつの店をやりたいのでどうしたらよいだろうと連絡してきた。休暇をもらって帰り、いろいろ指示して食堂を開いたら忙しくて帰れなくなった。蕎麦屋には謝って、そのまま店を続けたんです」
お汁粉、あんみつ、焼きそばの他、夏にはかき氷をはじめた。そのうちカレーもはじめた。自転車でカレーライスを山ほど担いで配達した。バイクで「スタミナ弁当」もたくさん積んで遠くまで運んだ。「8人兄弟の長男だから何とかしなくちゃ」と、ひたすら働き続けたという。
1955年(昭和30年)、『喜楽食堂』(宇都宮市伝馬町)と名づけて開店。「喜怒哀楽の怒りと悲しみを捨てました。気楽に来ていただける食堂です」
1962年、愛妻、富美子さんと結婚。時代は専門店ブームが到来していた。「これからはお客様がわざわざ来てくれるような店に」と、1966年に、とんかつ専門店「きらく」に生まれ変わった。6年後の1973年には、時代を先取りして「ステーキきらく」をオープン、その後「とんかつ」「ステーキ」「しゃぶしゃぶ」を中心とした専門店を次々とオープンした。時代のニーズに合わせての食店舗を展開し、街の食文化をリードする店舗のひとつとなった。
1988年(昭和63年)、宇都宮市伝馬町に「きらくビル」5階建を新築開店した。喜楽食堂オープンから33年余、昭和の最後の時代を飾る大仕事であった。
文化との関わり
「私は30代で水車の歯車に魅せられました。店舗を改装するたびに近くの農村で求めて、磨いて店の装飾にしました。けやきの木で作られた技術は、歯車の噛み合わせがピッタリ噛み合っていないと水車は回りません。やはり、人と人との噛み合わせもうまくいかないとバランスがくずれてしまいます。経営者とスタッフ、家族、仲間など。国と国もそうです。噛み合わせがうまくいかず動かなくなったら混乱します」
歯車の噛み合わせのように関わる出会いがある。このような人と人との関わりからフランス在住の画家・五月女幸雄さんに出会った。
「美術関係の方々もよく来店していただきました。北関東美術展で五月女さんが準大賞を受賞したときに店に寄っていただき、話してみると偶然にも旧制石橋中学校の後輩だったんです。後日はじめてフランス旅行に行ったときに、五月女さんにお会いしていろいろとご案内していただきました。娘さん(ピアニスト五月女慧)がまだ5歳くらいでしたね」
以来、画家・五月女幸雄とピアニスト・五月女慧に魅せられて展示やコンサートなどの企画に関わることになる。
また、フランスとの関わりは「ボージョレーヌーボーの会」を先駆けて開催し、多くのワインファンを楽しませてもいる。会は20年間連続でさまざまなイベントとともに話題を振りまいた。
「酒店越後屋(宇都宮市)さんに協力していただいて、樽からしぼったボージョレーヌーボーを皆さんに楽しんでいただきましたね」。第10回は本場フランスに出向いて盛大に祝ったという。栃木県の飲食店組合理事長を12年間務め、街の食と芸術文化の活性化のために貢献している。
「その頃から『笑顔にまさる化粧なし』と考えていましたが、その笑顔をつくるのは心の平和、何事も私は『ゆるす』ということを心掛けてきました。しかし、ある方の著書を読みまして『恕(ゆる)されて生きる』という一文に出会いました。そのことばに身体中が吹き飛ぶような衝撃を受けたのです。皆さまに『ゆるされて』生きるからこそ、今、喜び楽しむ日々を送れることと、心から感謝しております」
2013年、株式会社「きらく」社長、坂本富治さんは83歳。まだまだ先は長く夢はふくらむばかりである。
『ひと喜んで われも楽し これ きらくなり』(株式会社「きらく」社標より)

「きらく」社長坂本富治さん

株式会社きらく本店

昭和40年代とんかつ店としてオープン。愛妻、冨美子さんとご長男

昭和30年代喜楽食堂「カレーライス」の看板

喜楽食堂時代の坂本さん

思い出の写真を前に語る坂本ご夫妻

「きらく」本店内で歯車を前に

店内で冨美子夫人と