手掛けた神輿の数は一千基
昭和20年、大東亜戦争(太平洋戦争)の終戦の秋に、16歳で「親方」父、新三郎の元で、木工の仕事の修行を始めました。「手に職が有れば飯のくいはぐれは無い」と、無理やりに仕込まれました。
当時は仕事場に電灯もなく、一日の仕事を割り当てられます。日が暮れて手元が見えなくなると、「七輪」で木屑を焚いて、明かりを取りながらの仕事の修行でした。
昭和23年、日本の祭り事が復活し、戦争前に親方が元働いていた、千葉県市川市行徳町の五代目浅子周慶の店で、父親と共に神輿造りに従事しました。27歳で独立して現在の下野市花の木に宝珠堂を設立しました。手掛けた神輿の数は、平成23年秋現在、一千基は有ると思います。
昭和50年4月に、旧石橋町より町の無形文化財指定を受けました。昭和61年5月に県指定伝統工芸品の指定を受け、平成4年2月に栃木県指定無形文化財に認定されました。
(文:小川 政次/下野手仕事会40周年記念誌『下野手仕事会四十年之軌跡』P36-37より)

